Financial Academia

資産運用に関する情報発信サイトです。投資・不動産・保険・経済等、金融知識を身に着けることができます。

12大事件で読む現代金融入門 経済の良本!要約とまとめ

 目次

 

「これから経済を学びたい」、「将来のために投資をしていきたい」、「世界史(近代史)の勉強をしたい」、これらのうちどれか一つでも当てはまれば、この本ほど良本はありません。内容は決して簡単ではなく、かつ長いですが、この本の内容を理解できた時、日々のニュースの見方や運用のやり方は大きく変わっていくハズです。

 

本サイトでは、僕なりの要約として載せてみました。人に見せることを想定していなかったので少し見づらいですが、本を買って読む時間がない方など中心に、見ていただければと思っています。

 

 

ニクソンショックの衝撃(1971~)

→1971年8月15日、アメリカは金とドルの交換を突如停止。1944年から続いたブレトンウッズ体制は終焉を迎え、ドル円も1949年以降、1ドル=360円で続いた固定相場に幕を降ろした。「~ショック」とつく名の所以は、ここから始まることになる。

 

スポンサーリンク
 

▽共通通貨の構想

1945年、①世界銀行の設立、②IMFの設立の2つを掲げたブレトンウッズ協定が発効。そのうち②について、1947年にIMF協定が発効されたが、その際に、新たなバスケット通貨制度の導入を主張するケインズ(イギリス)とドルを中心とする基金という新たな通貨秩序を作りたいホワイト(アメリカ)が真っ向から議論を交わした。その軍配は経済的勢いで圧倒するアメリカに挙がり、基軸通貨は米ドルとなった。

 

▽IMF協定

1オンス=35ドル=360円(変動幅は0.5%)

 

▽かつての基軸通貨「ポンド」

19世紀まではポンドが基軸通貨であったが、1950年代には、ドルに準備通貨トップのシェアを奪われてしまった。

 

▽ベトナム戦争での痛手

戦争は短期的には経済成長の後押しとなったが、物資のための輸入の増加は貿易黒字を縮小させ、資金調達のための国債発行はインフレ率上昇をもたらした。それが、健全だったアメリカ経済を変えていく。一方、欧州経済は着実に復興していた。アメリカから欧州に、金が流出し始めたのだ。

 

▽ドル不安の高まり

1940年代、世界の金(ゴールド)の約60%がアメリカにあった。ブレトンウッズ体制は、そのアメリカに集中した金を土台として設計された制度である。しかし、それも長続きはしなかった。軍事支出や経済援助など政府部門の赤字増加によってドルが海外に流出し、金保有高は大幅に減少していった。1959年には、アメリカの自由準備(金準備全体のうち、国内準備を差し引いたもの)75億ドルに対して海外のドル資産が91億ドルと逆転。1960年代にはこの「マイナスの金準備」が100億ドルを超えるようになると、欧州諸国はドルへ不安を抱くようになった。

 

▽トリフィンのジレンマ

経済学者ロバート・トリフィンの言葉。1960年の著書「金とドルの危機」で、特定の通貨に依存する金本位制(すなわち金ドル本位制)の下で、基軸通貨の供給とその信用の維持は両立し得ない点を論じている。つまり、アメリカが経常赤字でドルを垂れ流さない限り国際的な流動性を保てない一方で、そうした状況が続けばドルの信用は低下してしまう、という矛盾を指摘した。

 

▽金融情報戦に日本は弱かった

欧州諸国は金とドルの交換停止を予測していた。証拠に、1961年に欧米7か国で「金プール制」という制度を設立している。これは各国が手持ちの金をプールして、ロンドンの金市場の操作を通じて金価格の安定を図ろうとしたものであった。極東の敗戦国の日本には、これらに参加する機会もなく、情報が遅れていた。

 

今後さらにグローバリゼーションが進んでいく中で、国際金融の知識が必要となるのは、金融機関や資産運用業界だけではない。政治の世界や企業経営においても、世界的な金融情報分析を避けては通れない、と肝に銘じなければならない。

 

スミソニアン協定(1ドル=308円)

1971年12月、ワシントンDCのスミソニアン博物館で合意された。金交換停止のまま、各国通貨をドルと交換する場合の新たなレートが確認。円は1ドル=308円で固定。他の欧州通貨も切り上げられたが、最大の切り上げ幅だったのは円。金価格も、1オンス=38ドルに切り上げ。ただ、金の交換停止状態では相場は不安定であり、最初に投機ターゲットとなったのはポンドだった。ポンドは当初から過大評価が指摘されていた。ポンドへの売り圧力が増すと、耐え切れなくなったイギリスは1972年6月に変動相場制へ移行。そして投機の矛先は、米ドルへと向かった。イタリア、日本、ドイツと次々に通貨体制の維持ができず変動相場制へ。こうしてスミソニアン体制は1年半もたたずに幕を降ろした。

 

▽固定相場か変動相場か

当時、変動相場はあくまで暫定的な措置。固定相場に戻るべきとの意見が強かったが、現実には現在も変動相場のままである。

 

▽国際金融のトリレンマ

「①固定相場制」、「②自由な資本移動」、「③独自の経済政策」を全て成立させることはできない。日米の関係は、②③を取り、①を捨てている。欧州は、ユーロという固定相場で①②を選択して、③を放棄した。

 

▽固定相場より変動相場制が優れている?

ニクソンショックは、スミソニアン協定での固定相場レート再編を経て、変動相場制を生み出した。しかし、市場に水準決定を委ねる変動相場制が完璧か、と言われればそうでもない。ブラジル、インド、中国は、急激な資本の流出入回避のために、資本規制による為替変動抑制を採ることが珍しくない。日本等の先進国でも、輸出競争力を高めるために金融政策を通じた自国通貨安を誘導する例が少なくない。

 

中南米危機に見る累積債務問題の重石(1982~2007)

▽メキシコに始まる

1982年、メキシコによる債務のリスケジュール要請。同年4月にフォークランド紛争を戦ったアルゼンチンも経済が急速に悪化し、翌1983年にはブラジルが対外支払いの全面停止を発表するなどして世界の金融市場を震撼させた。(その他、ポーランド、フィリピンも同時期にデフォルトしている)

 

▽背景

原油価格の高騰→インフレ率の加速→アメリカの高金利政策→ドル高→新興国の輸入額と金利支払いの上昇→外貨準備の急減→成長率の急低下、といった一連の動きがあった。

 

▽ブラジルモデル

1968年~1973年の6年間、「ブラジルの奇跡」と呼ばれた驚異的な経済成長があった。その動力は、輸出よりも輸入による国内耐久財の生産と消費。その投資を支えたのは、外貨借り入れの主体となっていた政府だった。1973年以降のオイルショックによって、輸入価格が高騰、貿易赤字に。これが海外からの更なる借り入れを増やす要因に。奇跡の余韻で74年~78年までも経済成長は続けていたものの、債務額が大幅に増加。①約50%上昇した原油価格が輸入額増につながったこと、②FRBによる引き締め策が支払利息の増加に繋がったこと、これら2つの要因でブラジルモデルは崩壊し、1983年にはIMFからの新規借り入れや、国際銀行団と既存債務のリスケジュールの交渉を開始するに至った。

 

※国が銀行などから借入を行う場合、金利は3ヵ月、あるいは6ヵ月のLIBOR(ロンドン銀行間取引金利)にスプレッドを上乗せする変動金利方式が一般的。国債発行の場合は固定金利で調達することが多いが、銀行借入の場合は短期金利に連動する変動型が中心。これが命取りとなった。

 

▽二度のオイルショック

1970年代に二度起きた(1973年、1979年)。その伏線として重要なのは、サウジなどが中心となって1960年に設立されたOPECが石油価格決定権を欧米から奪取したこと。WWⅡ以降、セブンシスターズと呼ばれる大手国際石油資本7社(石油メジャー)が価格決定権を持っていた。彼らは、石油消費国の利益を反映させるように価格を低く抑えたりしていたため、産油国からは不満があった。1971年以降、決定権は本格的にOPECへ移った。1973年10月、第4次中東戦争が起きると、イスラエルを支援するアメリカへの対抗措置として、1バレル=3ドルから5.12ドルへ値上げすると発表。翌年1月には11.65ドルへと引き上げた。これを第一次オイルショックと呼ぶ。1979年には、イラン革命でイランの石油生産が停止。OPECは再び値上げを決定し、翌年には1バレル=28ドルまで引き上げられた。これが第二次オイルショック。1970年代は、日本を含む石油消費国の先進国が高いインフレと景気後退が併存するスタグフレーションに悩まされた時代だった。

 

▽オイルマネーが作り出した世界

①石油価格上昇

②産油国にドル資金が蓄積

③国内に資金需要がない産油国は米銀に預金

④預金は銀行にとって負債。貸出先を見つけないといけない。

⑤当時開発投資資金を求めていた新興国に。特に、ブラジルに。

銀行団が共同で融資を行うシンジケートローンが華やかになったのはこの時代。当時の東京銀行はシンジケートローンの組成額で世界一になったことも。

⑥各国が原油価格上昇による貿易赤字に苦しみ始める。

⑦インフレ対策として、高金利政策を行う。

⑧利払い不能の状態となってしまい、失業率悪化などの影響。

 

▽狂乱物価

1974年、CPIが前年比23%まで跳ね上がった。

  

▽ブラジルがモラトリアムを強気に宣言できた理由

累積債務問題は貸手責任であり、仮にブラジルが元利不払いを宣言したところで海外銀行は何もできないと読み切っていたから。

※モラトリアム=支払猶予

 

▽ソブリン・リスク

累積債務問題は、「ソブリン・リスク」を甘く見てはならないという教訓を銀行団に植え付けた。 

 

▽ブレイディボンド

ソブリン向けの融資を証券化したのは、「ブレイディボンド」が初めて。銀行は、みずからの融資を証券化して第三者に売却するという貴重な経験を積んだ。

 

プラザ合意の落し物(1985/9/22)241円→150円台→120円台

G5がNYのプラザホテルにて、実質的なドルの切り下げで同意した。特に下落幅が大きかったのは、その主眼であったドル円。9月21日のドル円241円70銭から一週間も経たずに210円台、年末には200円1986年1月には200円を割り込んだ。日銀の利下げや、ドル買い介入にも関わらず、1986年7月には150円台に。1971年のスミソニアン協定で設定の308円のほど半分になった。これは、G5が想定していた以上であった。1987年になってもドルの下げ基調は変わらず、今度はG7が為替相場を安定させようと「ルーブル合意」を発表。しかし、ドル売りは止まらず、年末には120円台に。ここでようやく沈静化した。当初は2か月程度を想定したプロジェクトで、ドルの切り下げも⒑~15%程度だったが、実際には3年もの月日と大幅な下落となった。

 

▽なぜプラザ合意をした?

アメリカが、高すぎたドルを下げたかった。ニクソンショック、スミソニアン協定でドルを大幅に値下げしてきたハズだが、1970年代の高金利政策によって、世界の資金がドルに集まっていた。すなわち、ドル高になっていた。輸出の減少と輸入の拡大で貿易赤字は拡大していった。

 

→プラザ合意の裏にある「レーガノミクス」の失敗

レーガノミクス・・・①減税②ドル高③軍事費拡大、この3政策で強いアメリカを目指したが、結果的に財政赤字、経常赤字の双子の赤字失敗。本質的な原因はアメリカ企業の競争力低下にあるが、批判の矛先は経常黒字国である日本やドイツに向けられた。すなわち、経済政策の失敗による不均衡問題を、為替レートで調整しようとした。

 

▽為替介入は誰がやる?

実際に介入を決定するのは、財務省。日銀はその命を受けて実行する執行部隊。プラザ合意の際には円買いドル売り。

昨今の為替介入は投機筋が作り出す市場トレンドを止めたり、反転させるために行うものが多いですが、プラザ合意における協調介入は主要国が意図する水準に相場を誘導する計画的なものだった。これ以降、目標圏を定めた協調介入は行われていない。コントロールするには巨大な市場となっているから。

 

▽ドル安はどのようにバブルを生んだのか?

急激な円高による「円高不況」を生んだ。不況対策として日銀は①積極的な緩和策を打ち出した。また内需拡大を迫られた政府は②公共事業の拡大など大幅な財政政策を採用。これがバブルへのトリガーとなった。金融緩和は、企業への融資増よりも、金を借りて株や不動産に投資する財テクの動きを加速させた。銀行も不動産関連の融資を拡大。また、空港、道路、橋の建設などの財政政策への投資は国債発行を増発させ、従来の財政緊縮路線は弱まった。政府の財政支出は膨らむ一方だった。

 

ブラックマンデーの悪夢 1987年10月19日

プラザ合意による急激なドル安は、輸入価格を上昇させ、インフレ懸念が強まっていった。インフレ対策でFRBが利上げをするのではないか、との懸念も強まり、結果として1987年9月に5.5から6%に公定歩合を引き上げた。利上げは常に、株式市場への逆風となる。

 

▽ポートフォリオ・インシュアランス

インフレによる利上げ懸念、双子の赤字による市場不安は、ブラックマンデーの暴落に直結する原因ではない。これらの不安心理が募っていたところに、何らかの想定外の売り圧力がかかった。それに最も当てはまるのが「ポートフォリオインシュアランス」と呼ばれるプログラム取引の存在。ヘッジ手法の一種。株を多く保有する機関投資家は、株価下落に備え、プットオプションを持つ、という戦略が想定される。当時まだ発展途上だった資本市場にいつも都合よく理論価格通りにオプションが提供されるとは限らなかったので、機関投資家はこれと同じ機能を持つ商品の開発を歓迎した。1981年ごろからアメリカの大手機関投資家の中で浸透。しかしこれが前提条件通りに機能せず、このシステムの売りがさらに売りを呼び、相場が下げ止まらなくなったのが10月19日だった。

 

▽ドイツのハイパーインフレ

1923年、ワイマール共和国時代に30000%にも及ぶインフレが起きた。WWⅠ後、巨額の賠償金を要求され、同国は中央銀行による国債の大量買入れと紙幣の大量発行を行ったことが原因。この出来事により、ドイツは「通貨は強くあるべし」という考え方を持つように。インフレを招く通貨安は許さなくなった。

 

▽日本のバブル崩壊に見る痛手

1989年12月29日、日本株の絶頂は転落の序章だった。その日、日経平均は3万8915円という年初来高値で取引を終えた。長期的な目標は8万円と予想する証券会社もあったそう。前提として、当時の銀行は政策投資と言われる企業の持ち合い株だけでなく、相場観に基づく積極的な株式投資も行っていた。株価はこの日がピークだったが、不動産市場は1990年代に入ってもまだ上昇機運が廃れていなかった。株価はいずれ回復する、との期待感が強く、不動産も人気が高かった。

 

住専というもともとは個人への住宅ローンを専門に扱う銀行があった。いずれ銀行などにシェアを奪われ、企業用の不動産等にも融資を拡大。さらに、不動産への融資抑制のために規制が入った際、住専は対象外だったため、銀行はこぞって住専に融資。住専はその資、金を元に不動産開発業者等に融資を行っていた。しかし1991年ごろから不動産市場は値下がりを始め、住専の不動産担保融資の焦げ付きが発覚するのは時間の問題だった。結果、総資産の約半分6兆円もの損失が発覚。大手住専7社は消滅。公的資金も投入して損失処理が行われた。その後、三洋証券、山一証券、北海道拓殖銀行が相次いで破綻。どの銀行も、不良債権を抱えていた。日本長期信用銀行、日本債券信用銀行の2行は大幅な債務超過で国有化。最終的に、2003年にりそな銀行に2兆円規模の公的資金投入で日本の金融問題は一応の決着。

 

 

※背景

当時企業は余裕資金を現先取引で行うようになり、銀行預金よりも有利なリターンを得るようになった。社債市場の自由化によって、企業の資金調達銀行借入から離れていった。1984年に為替取引の自由度が増すと、外債を発行して円ヘッジをする等の手法も。転換社債やワラント債での実質的なゼロコストの資金調達は人気だった。こうして1980年代は銀行離れが急速に進んだ。不動産価格の上昇は、銀行にとって願ってもない唯一の生き残れる道だった。

 

▽不動産バブルは再発するか

バブル崩壊の反省から、現在は不動産価格は実体経済に即して極めて合理的に決められるようになった。バブルの再発は、市場心理からして考えにくい。

 

ポンド危機で突かれた欧州通貨制度の綻び

ロンドンは今も、国際金融センターとしてNYと並ぶ位置を占めている。外国為替取引に至っては文句なしに世界の中心。そのロンドンで、1992年秋にポンドが売り浴びせの集中攻撃を受けた。仕掛け人はジョージソロス率いる「クォンタムファンド」。それに対して必死に利上げやポンド買い介入で抵抗したのが英中銀。当時欧州には通貨間の変動幅を2.25%に留める規制があった。しかしポンドへの集中売り浴びせによりマルクに対しての下限を割り込み、公定歩合を10から12%、15%と引き上げたが下落は止まらず、ついに敗北宣言(為替相場メカニズムからの撤退)を行い変動相場制へ移行した。

 

「ファンダメンタルズから外れた為替レートはいずれ修正される」

 

という市場の見方が経済実態にそぐわなかった制度を破壊した、ひとつの事件。

 

▽市場の流れを加速させたオプション

オプション取引は、為替リスクの抑制が本来の目的ですが、一方で少額の資金で大きな元本取引が可能になるレバレッジ構想がある。このポンド売り攻撃にイギリスは耐え切れなかった。同国は過去に何度もポンド危機に遭遇しており、割高なポンドを維持することの難しさは熟知していた。敗北を認めると即座に公定歩合を切り下げ、ポンド安を利用した景気回復への道を歩んだ。イギリスがユーロに参加していないのは、硬直的な制度に縛られると国内経済を犠牲にし兼ねないから。

 

 

▽キャリー取引

為替リスクが少ないと判断されると、市場には為替市場を利用した利ザヤ稼ぎが広がっていく。例えば低金利の円を売ってオーストラリアドルを買う(キャリー取引)。

 

▽ヘッジファンドについて

1949年にアルフレッド・ジョーンズが立ち上げたファンドが世界初。そのコンセプト次の二点。

 

  • 借り入れを行ってレバレッジを使うこと
  • 割高とみられる株式は空売りすること

 

従って、ヘッジファンドを厳密に定義しようとすれば、レバレッジ利用と割高銘柄の空売りを基本戦略におくものとなる。

 

▽バブル崩壊後のキャリー取引

バブル崩壊後の日本で低金利政策が進んでいたころ、低金利の円を売って高金利のドルを買う戦略をヘッジファンドは行っていた。1998年には147円まで円安が進んだ。

 

▽北欧も経済危機に

ポンドの売り浴びせと同年の1992年、スウェーデンは政策金利を500%に引き上げなければならないほど苦境に陥っていた。同国通貨のクローネが変動幅の下限を割り込むのを防ぐ措置。

 

▽円安は日本にとって善か?

日本において、通貨価値が下がれば輸出が増えて景気が上向くというのはもはや過去の常識。企業の海外進出が進み、電機業界の競争力低下もあり、現在はかつてほど円安の恩恵はない。

 

▽アジアの共通通貨構想!?

アジアでも共通通貨の構想はあったが、政治的対立が絶えない中での実現は困難であり、ユーロ危機の教訓からも、改めてその難しさが認識されている。

 

デリバティブズの挫折

1990年代に入ってからは、デリバティブズを利用した有利子コストの削減が大手企業財務の仕事の一つだった。

 

▽金利スワップ取引

同一通貨間で異なる種類の金利を交換すること。最も多いのは、固定金利と変動金利の交換。金融機関や企業が金利変動リスクを回避するために利用することが多い。

 

▽P&Gのデリバティブズ事故

①バンカーズ・トラストと②P&Gは①→②に固定金利、②→①に変動金利を支払うスワップ契約を締結した。その後、FRBグリーンスパン議長の政策もあり、金利はどんどんn上昇。裁判沙汰に。P&Gは、銀行から固定金利5.3%で借り入れた金利を、スワップを通じて変動金利に切り替えた。

 

スワップやオプションは1980年代に急速に発展したデリバティブズであり、特に金利スワップは財務コスト削減のために、為替オプションは企業の輸出入に関わるリスクを低減するために、積極的に活用されるようになった。双方ともに、実需に密着したリスク管理手段として利用されている限り、大きな事故が起きることはなかった。P&Gのように、リターンを意識してデリバティブズを利用すると、事故が起こる。

 

▽仕組債

スワップやオプションなどデリバティブズを組み込みことで市場変動によってクーポンや元本が大幅に変化する特殊なキャッシュフローを持つ債権のこと。

 

この時期、オプションやスワップは、本来のヘッジ目的から外れて、投資家や企業が投機的に利用する道具に変質していった。

 

銀行側は通常、デリバティブズ取引を行って利益を確定した後は、その顧客との取引で発生したポジションをヘッジし、その後の市場変動による影響を受けることはない。リスクを取るのはいつもその顧客。

 

▽日本に売られている投資信託の本数

・・・5587本

 

▽世界に広がるデリバティブズ事故

・アメリカオレンジ郡・・・1992年25億ドル損失

→レポ取引、リバースフロータ―という仕組債への投資によるもの

・シンガポール・ベアリングブラザーズ・・・13億ドル損失→経営破綻

イギリス王室御用達だった名門が破綻し、1ポンドという屈辱的な価格でオランダINGに買収された。

 

アジア通貨危機で再び新興国の連鎖破綻

▽タイバーツ売りの背景とは?

1990年代後半に入り、世界の金融市場はグレートモデレーションンという安定感に包まれていた。そのムードを最大限利用していたのが、東アジアの奇跡と称賛されていたアジア諸国。彼らは「ドルペッグ」と呼ばれる一種の固定相場制を採用し、自国通貨とドルの為替レートが変動することを防いでいた。この制度の下で、為替リスクを抑えながら低金利のドルを借り入れて、国内成長のエネルギーとしていた。ヘッジファンドは、これが継続できるかどうかをじっと見つめていた。彼らが下したのは、1992年のイギリスと同じように「アジア諸国の通貨レートは維持不能」という結論であり、まずターゲットリストの先頭に挙げられたのが1ドル26バーツのタイ。1993年にオフショア市場が開設され、短期資金の流入が多かった。ドル建ての短期資本で「現地通貨の長期投資」に充てていた。通貨と期間のダブルミスマッチが形成されていた。1997年5月14日、ヘッジファンドの突然のバーツ売りに、同国中央銀行はバーツの借り入れレートを最大3000%に上げた。一か月はバーツ売りが収まったものの、攻勢を再開すると、もはやタイには抵抗する力は残っていなかった。そしてドルペッグを放棄した。変動相場となったバーツはもはやフリーフォール状態。1997年7月に32バーツ、翌年1月には54バーツまで売り込まれた。1994年じの12%水準まで株も売り込まれた。

 

▽マレーシアに飛び火

マレーシアリンギットも売り込まれ、2.9リンギットから4.5リンギットまで急落。タイと大きく異なっていたのは、IMFへの支援を要請しなかったこと。当時のマハティール首相がIMF総会においてジョージソロスを名指しで批判。IMF支援を断ったことで、欧米社会や金融市場からNOと突きつけられ、通貨、株価の下落が加速。首相が選択したのは資本規制。為替レートも3.8リンギットに固定。金融緩和策も導入。「自国経済の失敗を投機筋に擦り付けて責任回避しようとするものと批判」。ただし、市場経済の成熟度が高くない新興国が投機筋の波から自国経済を守るという方法は必ずしも非難されるべきものではない。マレーシアは、大方の予想を裏切って1999年以降、徐々に経済回復を果たしていく。為替レートの下落と安定化で、電子関係など製造業の輸出が回復。ちなみに、ソロス氏はリンギットを売ったことはない、と主張。

 

▽インドネシアにも(2400ルピア→10000ルピア)

比較的良好なファンダメンタルズだった同国は、特に変調は見られなかった。しかし、変動相場制に移行すると、ドル建ての借入が多かった同国企業は投機的なルピア売りを行った。

 

▽韓国(580ウォン→1700ウォン)

ドルペッグ制をと採用しており、徐々に起亜自動車が破綻するなどして脆さが露呈。当時韓国の経済成長を疑わずに融資、投資していた日本の銀行・企業にとっては強い衝撃だった。

 

このように、タイを発端としてアジア通貨危機は各地に広がり、最終的にはフィリピンや香港にも広がった。2000年以降、アジア経済は劇的な回復を遂げた。

 

▽国際経済の矛盾

なぜ資本の急激な流出や流入が起こるのか、という根本的な問題を考えると、ドルという一国の通貨が国際的な準備通貨として利用されるという構造矛盾からくること。アメリカの通貨であるドルを、アメリカ以外の国が国際経済拡大のために利用する際の貧弱性は、アジア危機の前にメキシコで立証済みだった(テキーラショック)

 

▽ロシア危機(1ドル6.2ルーブル→20ルーブル)

エネルギー需要の低迷から天然資源価格が低迷し、特に石油やガスなどの輸出で財政をまかなっていたロシアは厳しい状況下にあった。市場は同国の内政問題にも懸念を示しており、1991年のソ連崩壊後、チェチェン侵攻や景気後退、首相解任といったエリツィン大統領の失政により資金流出。ルーブルには下げ圧力が加わっていた。1998年7月に、IMFはロシアに緊急支援を決めた。ところが同国政府、中央銀行はその翌月、対外債務の90日間停止というモラトリアム(支払猶予)を宣言し、ルーブルの相場を対ドルで約25%切り下げた(ロシア国債の事実上のデフォルト)。ルーブルは暴落。ソブリンリスクは小さいと見て同債に投資していた多くの機関投資家が損失を被った。中でも、高いリターンを残し続けることで有名だったLTCM(long term capital management: 設立後の数年間は平均年利40%)への打撃は強烈。LTCMなどの経営不安は世界に波及。こうした不安定な状況下では、株式などのリスク資産は大幅に値下がりする。機関投資家は、その損失を埋めるため、利益の出ているポジションは全て利食っておこうとする。当時、円売りドル買いのキャリー取引がそのひとつ。これを手放したため、ドル円は130円台から110円台に急落。しかし、LTCMが仮に破たんすれば、デリバティブズ取引などで関わりがある多くの金融機関に影響が出る。当時のNY連邦準備銀行総裁マクドナー氏は、民間のファンドを救済することの批判を承知の上、ウォール街の主要金融機関15社に同社への支援プランを策定することを要請。結果、14社が36億ドルの融資を行って取引を継続。金融不安は封じ込められた。後2008年3月に、破たん寸前に陥ったベア・スターンズ(LTCMへの融資を断った唯一の機関)をJPモルガンに吸収させたガイトナーNY連銀総裁の脳裏に、10年前のこの出来事がよぎったことは間違いない。

 

ITバブル崩壊の狂騒

インターネット産業が発達した1990年代後半、投資家の間でインターネット関連ビジネスを理解できないまま、流れにのって青田買いしようとする投資家が続出。ドットコムバブルと呼ばれた。IT関連の新興企業が集まるナスダック市場の総合指数を押し上げ続けた。利益を出していない企業の株価が急騰、経営に苦しむ企業が「インターネット業務に進出」と発表しただけで株価が上昇するというバブルが進行。アメリカではシリコンバレーで数多くの新興企業が設立されていた。「ニュー・エコノミー」待望論。ナスダック総合指数は2000年に入っても上昇を続けていたが、株価がいつまでも上昇を続けないことは明白。2000年3月10日に同指数は5048.62ポイントを付けた後に一転して急落。2002年10月9日には1114.14ポイントまで約78%の下落を記録した(サブプライム~リーマンショックの際のS&P500の下落率でも57%)。実績を生み出さないまま資金調達に走ったベンチャー企業は相次いで破綻。ITバブルはあっけなく終了した。その後現在に至るまで、当時のナスダック総合指数の水準に回復できていない。

 

▽根拠なき熱狂

本来は不安定な動きを示すはずの株価が、様々な構造定期要因により、高水準に維持され、長期的な上昇が約束されているような思い込みがバブルを醸成している。

 

リーマン危機に連なるゲーム

ITバブル崩壊以降、同時多発テロ等もあり、アメリカ経済の成長は鈍化していった。緩和基調の中で、新たな「資産バブル」が形成されていった。今回の主役は住宅市場。アメリカ政府は従来、国民に対して持ち家を推奨してきた。家の購入こそ、アメリカンドリームの実現だった。そのため、マイノリティや低所得層への持家推奨を行い、これにFRBの緩和政策が応じました。そして信用力の低い人に融資を行う「サブプライムローン」がウォール街の金融機関の収益源に育ち始めた。そこで大きな役割を果たしたのが「証券化市場」。

アメリカの金融機関が保有するサブプライムローンは、特別目的会社という受け皿に集められ、信用力に応じたいくつもの証券に「加工」される。こうして生まれた証券には世界中の投資家から需要が集まり、アメリカ外では特に欧州市場で売れた。銀行は、自身のポートフォリオとしてだけでなく、傘下のファンドにおいてもこの証券への投資を活発化させていた。住宅市場が好調であれば、信用力が多少低いローンでも問題は起こらない。なぜなら、低所得の家計でも家が値上がりして売却益が出たり、担保余力ができてさらにローンを借りたりできるから。仮に払えなくなっても、銀行が担保の不動産を売却してしまえば十分に融資金は回収できたのだ。2001年から2006年まで、住宅市場はずっと好調だった。

 

▽サブプライム問題の表面化とパリバショック

住宅価格の上昇速度が鈍化。6月頃には業界にピーク感が出ていた。2007年に入ると、ついに住宅価格は値下がり始めた。一方、FRBは2003年6月に政策金利を1.0%に引き下げた後、2004年6月以降は引上げモード。2006年6月には5.25%という水準に。低所得の人や変動金利で借りていた人は支払いが苦しくなる。それが証券化市場の不安材料として急浮上した。流通市場での売買はストップ、流動性は一気に消失して価格水準が全く見えなくなった。価格がわからなければ、投資しているファンドのNet Asset Valueもわからない。投資家は一刻も早く解約しようと急いだ。解約依頼が殺到すれば、資金返還のためにその証券化商品を売らなければならない。しかし、市場では値が付かないので売れない。そこで、傘下に証券化商品に積極的に投資していた運用会社を抱えるフランス金融最大手のBNPパリバは、2007年8月9日に、「グループ内の3つのファンドでは投資家の解約請求には応じない」と発表した。これは金融界を驚愕させた。ことの重大さに気づいた為替市場は大混乱。株式市場も大暴落。市場の鎮静化を図るため、ECBは即座に948億ユーロという巨額の資金供給を発表せざるを得なかった。これが、100年に1度の金融危機の幕開け。

 

▽証券化とは?

間接金融から直接金融への金融構造変換

 

債権者(銀行)としてはバランスシートに余裕が生まれるため、新たな貸出を行うインセンティブが生まれる。機関投資家は、今までになかった新たなアセットクラスへの投資が可能になる。累積債務の問題で悩んでいた銀行にとって、この証券化は一つの解決策となった。自動車ローンやリース債権、売掛債権といった資産をまとめて証券化し、バランスシートを改善させることで大きな恩恵を受けた金融会社もあった。1980年代に入ると、こうした債権を担保とした資産担保証券(ABS)が急増し、アメリカでは社債と並んで資産担保証券やモーゲージ担保証券が大きな役割を果たす。証券化の波は日本にも押し寄せ、1993年の特債法によって道が開かれ、1996年の同法改正により、資産担保証券が発行されるようになった。

 

▽証券化の問題

信用力をどう判断し、どのような信用補完を行うべきか。

信用補完・・・信用力の高い商品をどう設計するか。端的に言うとどうやってAAAの格付けを取得するか。社債などは企業の財務状態から判断されるが、証券化商品の格付けはあくまでも過去の統計にすぎないデフォルト率を使用。機関投資家は、格付けを見て投資している。BNPパリバ傘下のファンドも例外ではない。しかし、過去のデータを基にする解析手法には問題があった。住宅価格が30%以上も下落するシナリオには対応できていなかった。信用力の低いサブプライムローをいくらかき集めても、信用力の高い商品はできないことは今になれば明白だが、当時は、証券化の技術がそのマジックを可能にしたのだと誰もが信じて疑わなかった。2007年以降はAAAやAaaの商品が相次いで元本割れ。市場で注目されていたのは、モーゲージ担保商品に軸足を置いていたベア・スターンズだった。

 

▽ベア・スターンズからリーマンブラザーズへ

アメリカの金融会社はそれぞれに特徴がみられる。ベア・スターンズの場合は、モーゲージ担保商品の組成や販売に特化していた。とどまることを知らない住宅市場の活況とモーゲージ担保商品の拡大は、同社をレバレッジ経営へと傾けていった。そもそも、投資銀行とは、資産を保有して稼ぐ金融機関ではなく、証券引き受けや財務アドバイスなどで手数料を取ることをビジネスモデルとしている。

証券化市場では、高い格付けで高いリターンが期待できるデリバティブズを組み入れた複雑な商品も多数生み出されており、資産保有による利益を求める投資銀行には絶好の投資対象だった。しかし、そうした商品は客観的な価値判断が難しく、市場で売買ができなかった。結果、商業銀行のように満期まで保有せざるを得ないものとなった。ベア・スターンズは、110億ドルの資本に対して4000億ドルもの資本を保有していた。36倍のレバレッジ。その資産の多くは、利回りは良いが市場売買が難しい証券化商品だった。もっとも、同社の経営危機を招いたのは、傘下のヘッジファンドの破綻。借り入れた資金で極めて投機的な商品に投資していたことから住宅市場が低迷に向かう中で損失が拡大。JPモルガンに1株あたり10ドルで売却されることになった。

 

▽次はメリルリンチかリーマンブラザーズか

規模からいって上記二社が破綻候補だったが、メリルリンチがバンクオブアメリカに救済されたため、市場の注目はリーマンに集まった。

 

▽リーマンブラザーズとは

1850年創業の老舗。アメリカの投資銀行第4位。債券取引に強みを持ち、世界中に拠点を張り巡らせていた。しかし上位3社との差は大きく、何とか差を埋めようとモーゲージ担保証券や商業用不動産取引への傾斜を強めたことが命取りとなった。同社もまた、資金を借り入れて資産を保有する戦略だったが、その資産の多くは個人向けのサブプライムローンではなく、商業用不動産担保融資を裏付けとする証券化商品だった。同社の経営破綻観測が強まる中、これほどの規模の投資銀行を救済できる銀行は世界のどこにもない、という見方が強まり、最終的にはアメリカ政府が救済するのではないかとの思惑も浮上した。しかし、そうした予測を裏切り、2008年9月15日に、経営破綻。

 

▽ウォール街の雄の凋落

・ゴールドマン→FRBからの資金支援を受けるために商業銀行へ衣替え。大口取引先のAIGを政府が救済(これはGSを意識したものと言われている)

・モルガンスタンレー→MUFGからの出資。FRBからの資金支援を受けるために商業銀行へ衣替え。

 

▽企業経営の場合、他人資本で利益率を高めるレバレッジを用いるのが普通。

 

▽銀行ビジネスの本質は、優良な資産を保有するために負債(預金)を増やすこと

 

▽三菱商事の場合、自己資本において負債が何倍かを示すレバレッジは2倍程度だが、三菱東京UFJ銀行では20倍前後。商業銀行ではこの比率が高くならないように、自己資本比率という別の尺度を通じて財務の健全性を維持している。

 

▽対して投資銀行の場合は本来資産を保有しないため、保有するとしても顧客ビジネスのための短期保有くらい。そのために調達されるのは短期資金になる。これをさせてきたのがレポ市場(現金担保付の債権賃借取引、買い戻し条件付債券売買取引)。預金という安定的な資金調達手段がないにもかかわらず、投資銀行が30倍~40倍という高いレバレッジを維持できたのは、このレポ市場のおかげ。しかし、レポ取引も、事実上の担保となる証券のみ質で支えられている。国債などであれば問題ないが、モーゲージや商業用不動産担保融資などを原資産として証券化された商品は客観的な価格がつかない。住宅市場の悪化とともにヘアカット(担保価値の削減率)も大きくなり、投資銀行が借り入れできる資金は減少。そんな不安材料の中で新たな借り入れは難しいから、資産を投げ売りするしかない(自己資本不足になるから)。こうしてさらなる下落に拍車をかけていった。リーマンショックの陰には、そんなレポ市場のメカニズムも働いていた。

 

ギリシャ財政不安でユーロ絶体絶命

2009年秋、ギリシャに政権交代が起こった際、旧政権下で隠ぺいされていた財政赤字問題が浮き彫りになった。公表の4%ではなく、13%にも達するという衝撃的な内容。市場には、同国の債務返済能力を疑う声が出てきていた。それを決定的にしたのが2010年1月12日に発表された欧州委員会の報告書。内容は「ギリシャ発表の経済統計は信用できない」。1999年にユーロが導入された際、参入のための目標値に届かず、ギリシャは2001年に参加と出遅れた。その際に、市場には、本当に同国が目標値の経済指標を達成できたのか疑う声もあった。GSと交わしていたスワップ取引によって財政赤字が表面的に修正されたのでは?トロイカ体制(ECB,EU,IMF)で支援を決めるも、結局同国国債の長期金利が40%になるなど、不安は高まるばかりだった。

 

▽ギリシャ投資はなぜ進んだのか。

ドイツ、フランスから見れば「為替リスクゼロ、デフォルトリスクゼロ」の願ってもない投資対象だった。フランスとドイツで、ギリシャ国債の60%も保有していた。欧州には、ギリシャの債務再編を行えば、フランス、ドイツへ与える経済的ダメージが大きいこと、リーマンショックの余韻が残る世界経済にはダメージが大きいという警戒心があった。最終的には、銀行を含む投資家は、53.5%のヘアカットを要求された。事実上、ギリシャはデフォルトしたのだ。

 

IMF等の支援でも明るい兆しが見えてこないギリシャに対して、市場では「ユーロを離脱してドラクマに戻し、為替レートを大幅に切り下げるほかないのではないか」という意見が強まっていた。

 

▽ギリシャのユーロ離脱は現実的に難しい

2007年に締結されたリスボン条約によって、他国が強制的にある国を共通通貨制度から追い出すことはできない。あくまでも、ギリシャが自ら離脱を宣言する必要があった。

 

▽ドラクマ復活にあたって

既発債のユーロ建て債権などが多く出回る中で、ドラクマの為替レートをどこに設定するのか、という難しい問題がある。

 

そもそも、一度ユーロに参加した国が離脱するということは共通通貨制度、ユーロシステムの失敗を意味する。できれば回避したいというもが欧州勢の本音。

 

結局、ギリシャ問題は時間をかけて解決するという曖昧な状態に。

 

▽転機をもたらしたドラギ総裁

2012年7月27日、ECBのドラギ総裁は「ユーロ圏を崩壊から守るためには何でもやる」と述べ、南欧国債をECBが買い入れる準備があることを世界に向けて宣言した。各国のどの総裁の発言よりも、ドラギ総裁の発言が火付け役となり、リーマンショックからユーロ危機という暗いムードに包まれていた世界の資本市場は山場を越えた。

 

ドイツ連銀は、過去の経験から金融緩和によるインフレ誘致はしたくない。メルケル首相もそれには理解を示していた。しかし、ギリシャの離脱はユーロシステムの失敗を意味する。首相もECBの意見に耳を傾けざるを得なかった。これは、政治的な判断だったと言える。

 

▽ユーロの課題

金融政策はECBに統一されたが、財政政策は各国に任せたまま。ギリシャを筆頭とする南欧諸国の危機は、共通の財政政策を行っていなかったことに起因する。

 

 

終わらないフラジャイルワールド

▽バーナンキショック

2013年5月22日、バーナンキ議長が「債権購入ペースを弱める可能性がある。」と発表。市場のムードを一変させた。6月のFOMCでは、「年末までにQE3を縮小する可能性がある」と発言し、新興国に対して極めてネガティブな影響を出した。2008年の危機以降、新興国は先進国に代わって高いGDP成長率を維持していたが、その成長を支えていたのは海外からの流入資本。それがどこの国から引き上げられるか。対象となったのは「フラジャイル5」と言われる国々。インド、インドネシア、ブラジル、トルコ、南アフリカ。ドルは基軸通貨として世界で使われているが、その通貨を動かすアメリカの金融政策は、自国の経済運営を中心に考えられていることが根本的な問題。ドル建て資本は、アメリカの金融政策で一気に変わる。新興国経済は、そういった点で貧弱だった。

 

▽1990年代と異なる点

①外貨準備

過去の教訓により、自国通貨を守るための防衛手段として外貨準備の積み上げを図った。対外負債を返済する上で十分な体制にあるアピールとしても。

スポンサーリンク
 

②変動相場制

1980年代や1990年だの新興国通貨危機は、長期的に維持不能である為替水準を固守しようとして失敗したことが発端。現在、多くの新興国が変動相場であり、無理な介入をする必要がない。為替が暴落しても、それが輸出部門を支援する機動性も持っている。

  • 資本市場の構造

以前は資産運用といえばMutual Fund(日本の投資信託みたいな)が中心。今は、ヘッジファンド(3兆)、プライベートエクイティファンド(3兆)、ソブリンウェルスファンド(6兆)など様々。全てが投機とは言えないが、投資家の運用先は多種多様化している。規制を作る選択肢もあるが、いつでも買えて、いつでも売れる、という市場構造を可能にしているのは、規制がないからこそ、という側面もある。また、ETFのように先進国向けに作られた商品が新興国にも導入され、本来長期的な視点で見るべき新興国市場において短期売買され、必要以上に相場の振れ幅を増幅させているのも事実。

 

▽中国の動向

2013年にはドイツを抜き輸出で首位。2008年リーマンショックの時は、GDPの15%に相当する4兆円もの財政支出を行って内需を下支えし、世界各国から称賛を浴びた。しかし、その後の中国経済は投資に大きく依存しており、鉄鋼生産やセメント消費で確かに目先のGDPこそ伸びたものの、国内のいたるところにゴーストタウンが建設された。投資は必ずしも将来の果実を生まないことが判明したのだ。地方都市は計画性もなく借入を行い、発行した社債の元利金を支払う原子があるのかどうか、不安もある。また、そうした建設計画の資金調達にはシャドーバンキングが多く絡んでいた。シャドーバンキングは銀行の商品と思われがちだが、銀行には返済義務はない。デフォルトしそうになると中国政府が介入し、何とか食い止めている状態だが、それは問題を先送りにしているに過ぎない。これは、中国金融がいずれ世界の危機の原因に成りえることを意味する。

 

▽今後、シャドーバンキングが世界金融危機の引き金に?

シャドーバンキング=ノンバンクのファイナンス。現在、世界全体のファイナンスに占めるシャドーバンキングの割合は24%、71兆ドルもある。シャドーバンキングが今日注目されているのは中国だが、最大の規模を抱えるのは実はアメリカ。アメリカの銀行が融資のシェアを落とす中、今や資本市場の陰の主役と言えるのがPEファンドやヘッジファンド。

スポンサーリンク